政治評論ブログ 10区

匿名で勝手に政治評論

崩れ行く砂上の楼閣 民進党編

人はここまで醜悪になれるのか。

今回の衆議院選挙における民進党の一連の混乱とその後の紛糾を見るにあたり、おそらく多くの有権者が抱く感想であろう。極限の事態に個人の本質が露になる。いま彼らには有権者にどう見られているかを意識する余裕もないのだろう。一度は政権与党となった野党第一党の悲しすぎる現実は、そのまま日本の民主主義のレベルでもある。

今日の自民党政権を支えるのは、野党時代の反省に他ならない。無論、安倍政権の施政が長期化するにつれ驕りや緩みが散見されるのも事実だ。そうしたときに与党に緊張感を与え、有権者に政権の受け皿を示すのが野党第一党の意義であり責任である。モリカケ追求により安倍政権の支持率は落ちたが、民進党の支持率は一向に上がらなかった。前原氏の性急な合流判断や小池氏の排除の論理の前に、野党が最も反省しなければならないのはここだ。いまとなっては全てが遅すぎるが、民進党が前身の民主党時代も含め下野してから何をすべきだったのか、これに向き合わない事には今後どんな野党再編劇が起ころうとも野合の域を出る事はない。

  1. 普天間基地の県外移設は、衆参与党であっても、米政権が民主党オバマ政権であっても無理だった。これは当時の民主党執行部が認めた事だ。沖縄知事には正式に謝罪の上、辺野古移設への協力を求めること。
  2. 安倍政権の進める「働き方改革」は、本来連合を最大の支持母体とする民進党の一丁目一番地となる政策だ。党内の政策研究や議論の蓄積を有効に活用し、連合とのパイプを駆使し、法案の共同提出まで漕ぎ着けること。

 民進党に必要だったのはこれらの方針だった。与党としての経験を生かし、反省すべきを反省してこそ、有権者民主党政権時代を民主主義の「コスト」であったと納得し、次なる政権の受け皿の選択肢として認められる。しかし民進党は結局、与党であった財産のすべてを自ら「負の遺産」として捨ててしまった。苦しさから逃げた政党に、有権者が施政を預けるはずもない。

日本の民主主義は病魔に侵されていて、病巣はメディアにある。病名は「争点病」だ。問題をことさら単純化しようとし、対立軸をはっきりさせろと政党に迫る。現実的には与野党の見解が変わらない問題も多いのに、そうなると「争点がボケた」「対立軸がはっきりしない」と不満を口にする。野党はメディアに煽られすぎだ。自民党と対立する事を至上命題にすれば主張の幅がどんどん狭くなり、ともすれば現実的対応からも遠ざかる。小規模のエキセントリックなドリーマー野党ならともかく、野党第一党がそれでは困るのだ。

今後の日本の政局はどこに向かうのか。二つのパターンが考えられる。ひとつは立憲民主党を中心とした左派野党の拡大だ。しかし左派には共産党が含まれるため、ある程度の成長はあっても政権交代までは至らないだろう。「新55年体制」とでも呼ぶべき状態になる。現状はこうなる公算が高い。もうひとつのパターンは、希望の党や維新の会を中心としたリアリスト政党の拡大による保守二大勢力体制だ。この場合、第一党になった政党から首相を出し、その他の保守政党がそれに従う形が望ましい。自民党の派閥内で起きていた政権交代に、民主的に有権者が関与するスタイルだ。

いずれにせよ、野党は力をつけなくてはならない。力とは声高にメディアと迎合して主張を振りかざす事ではない。いまの日本に必要なのは、自民党と同等の能力を持った自民党以外の政党なのだから。

絶望の先に明日はあるか 希望の党編

希望の党衆議院戦後の両院議員懇談会と総会において、共同代表のあり方や特別国会での首班指名の方針など、当面の道筋はつけたようだ。小池都知事の代表辞任が回避されたのは朗報だろう。だが影響力の低下は避けられない。党内では早くも結党の理念の根幹であった「リアルな外交安保政策路線」に疑義を唱える声が支配的との報道もある。オリジナルメンバーの中心人物であった細野氏や長島氏、若狭氏の心中を思うと察するに余りある。

しかしながら、彼らが当初想定したであろう保守新党と、それをリセットして小池氏が華々しく立ち上げた希望の党は似て非なるものだ。若狭氏の「今回政権交代が出来ないなら小池都知事は出馬しなくてもいい」発言は希望の党の勢いを削いだが、よくよく考えれば当然の事でもある。そもそも参議院に議員が誰もいないのに政権交代などできても、まともな議会運営ができるはずがないのだ。安易な拡大に走らず、骨太なメンバーを集め党を育てるべきだった。尤も、選挙戦序盤の細野氏と若狭氏の調子に乗った発言をみれば、自業自得でもあるのだが。

なぜ小池氏は焦ったのだろうか。自主的に民進党を離党したメンバーと新人だけでも、20から30議席くらいの新党は立ち上げられたはずだ。小池氏と安倍総理の関係は都議会議員選後もそれほど悪くなかった。連立してメンバーに閣僚経験をつませても良かったし、閣外協力に留め憲法議論に参加して見返りに五輪担当相に気心の知れた人物を当ててもらう戦略もアリだったはずだ。少なくとも、自民党都連はともかく本部にまで全面戦争を挑むには準備が足りなすぎた。おそらくまともな政権構想すら無かった筈だ。

小池氏と前原氏、それに連合の神津会長との会合で何が話されていたのか、前原氏の言うボタンの賭け違いとは何を指すのか、推測の域を出ない事ばかりだ。ひとつ確かなのは、今回の選挙の最大の敗者が希望の党であり、最もダメージを受けたのは連合である事だ。連合は先見の明の無さ、指導力の欠如、組織の弱体化を白日の下にさらし政界への影響力を大きく後退させた。もはや存亡の危機と言っていい。労働者の互助団体という本分に立ち返り、地道な活動から見つめなおす契機にしなければならない。

都知事選から続いた、ある種の熱病のような小池旋風も終わりを告げ、残されたものは自分が一番作りたくなかったであろう第二民進党とでも呼ぶべき出来損ないの集まりだけだ。都政においても求心力を失い、手のひらを返したメディアからは連日否定的なバッシングが繰り返される。希望の党の代表辞任は避けられないとの見方もあった。

だからこそ、小池氏が代表続投の意思を示した事は朗報であると思いたい。実際に彼女がこの逆境を跳ね返す方策はある。党内外の禄でもない議員と戦い続ける事、それを見せ続ける事、そして都政に真摯に取り組む事だ。日本人は基本的に弱者に共感するので情勢は必ずひっくり返る。それまで我慢を続け党を存続させ続ける事ができるかどうかだ。

日本の小選挙区制は、構造的に二大政党制には絶対にならない。日本には公明党共産党という強固な支持基盤と組織を持つ中規模政党が存在するからだ。とくに共産党の存在は厄介極まりなく、一方の勢力に共産党が入ると政権構想が破綻してしまう。また民主党政権の失政の記憶は多くの国民に深く刻まれている。もやは政権批判票がそのまま野党に入る事はない。ドリーマーに夢を見る時代は終わったのだ。

希望の党の登場に、本当に希望を感じた国民は自民党支持層の中にも多い。それは希望の党比例区で集めた1000万弱の票数にも表れている。絶望のまま終わるには、あまりにもったいない。

 

枝野氏は大きな枷を背負った 立憲民主党編

躍進した立憲民主党の枝野氏の最近の発言には興味深いものがいくつかあるが、なかでも「永田町の数合わせにはコミットしない」そして「30年前なら私は自民党宏池会」という二つに注目したい。

僕の枝野氏に対する評価は非常に高い。もし彼がそのキャリアを日本新党ではなく自民党宏池会でスタートさせていたら、間違いなく有力な総裁候補になっていたはずだ。押すべきポイントと引くべきポイントを弁えた優秀な政策家であり、本質はレフトリアリストであろう。

枝野氏にとって立憲民主党の設立は、やむにやまれぬ事態だった。また小池氏にとって排除リストに彼や野田前総理の名を入れたことは痛恨の失策だ。ボーダーは左右ではなく、リアリストかドリーマーかで判断すべきだったのだ。枝野氏は左派ではあるが現実は見えているからだ。

彼は民進党の代表選挙において野党共闘の継続に前向きだった。リアリストの枝野氏が何故ドリーマーの極みにある共産党との連携に抵抗なく進めるのか。それは政権構想が無いからだと思う。正確に言えば、この連携が過半数を超える事は無いと確信しているのだろう。現実的な射程距離を議席で言えば野党共闘で170前後、つまり憲法改正発議への発言力確保に定めていたはずだ。枝野氏は政権交代を目指してはいない。それを目指せば民進党が瓦解することを知っていた。

民進党は、政権交代を本気で目指し正攻法にこだわった前原氏によって崩壊した。枝野氏の元にはレフトドリーマーが寄り集まって純化し、政権批判票だけでなく同情票も集め、恐らく彼の想定以上の議席となった。希望には僅かなリアリストと多くのリアリスト崩れが取り残されカオスの極みにある。参院民進党や無所属組からは早くも立憲民主党を中心とした野党再編が叫ばれている。しかし安易な再合流は再びの崩壊を招くだろう。枝野氏が再合流に慎重なのは当然だ。

立憲民主党野党第一党になったことで図らずも枝野氏は野党の盟主となった。リアリストであるはずの彼は、いまやレフトドリーマーの希望の星である。今までの野党党首よりは国会議論は噛み合うのではないかという期待はあるが、共産党との関係をさらに深め党も左に純化した今となっては主張に大きな制限がかかるだろう。かといって右に舵を切ろうにも、粉々になった民進党の勢力まで戻すだけでも茨の道だし、戻したところで結局は共産党との関係に対する認識のズレで混乱する。

野党の抱えるジレンマ、次の衆院選までに答えは出そうにもない。

 

本当の自力が試される 維新の会編

衆院選は自民の圧勝で終わったが、実は野党も元民進党という枠組みで云えば議席は僅かだが伸びている。減らしたのは共産・公明・維新だ。共産が減ったのは政権批判票の受け皿として、より手ごろな立憲民主党が現れたことによる。公明は先の都議会議員選で都民ファーストと連携した見返りで希望が小選挙区での候補を取り下げ、逆に野党が統一されるという皮肉な結果を産んだ。また、自民vs野党乱立のなかで埋没したことも影響した。そしてもうひとつ埋没した野党が、維新だ。

維新は今回、与党が過半数を割ればキャスティングボートを握る可能性すらあった。政策の相性で言えば希望との選挙協力は必然だ。しかしどこから現れたのか愛知県も含めた三都物語の胡散臭さから雲行きが怪しくなり、大村知事の離脱で野合っぷりを見せ付けて失速した。つかず離れずの候補者調整に留めておけば良かったのに、結局は希望の混乱に足を引っ張られた。

しかし、代表である松井大阪府知事の責任を問う声はあるものの、代表交代が良い方向に向かうとは思えない。松井知事でなければもっと壊滅的に負けていた可能性のほうが高いのだ。

維新は、共産党とは対極に位置する孤高の野党だ。保守系野党がいくつも誕生しては離散集合を繰り返す中、顔であった橋下氏の引退後も一定の規模で存続し続けるしぶとさの根源は、おもに関西の自治体における行政実績であると思う。つまりドリーマーへの期待ではなく、ライトリアリストとしての安心感であると言っていい。

それは同時に、自民党との違いを出しにくいという弱点にもなる。リアリストにとって個々の政策はそれほど重要ではない。現実を前にすれば公約を曲げてでも処理するのがリアリストだからだ。自民党の政策は要するに「状況に応じて臨機応変に対処します」であり、野党である維新は「状況に応じて是々非々で対処します」となる。じゃあ自民でいいや、となってしまう。

厳しい情勢であるのは確かで、党勢が今後急激に伸びる見込みはない。しかし維新の役割は重要だ。希望の党がリアリスト政党として存続出来るかどうかは大いに疑問だが、単なる批判票の受け皿ではなく自民党に変わる政権の受け皿として、保守二大勢力を目指すという考え方自体は方向性として正しい。希望の党は今後大荒れの展開が待っているが、維新がそれに巻き込まてしまえば日本の政党政治は大きく後退する。

小選挙区制の異分子 共産党編

衆院選の結果を受け、野党の共闘が全選挙区でなされていたらもっと議席は接戦だったとの新聞各紙の記事を見る。しかし、実際には野党共闘は崩れた。野党にもそれぞれ事情があるから割れたのだ。

共産党は特異な政党だ。各選挙区に20,000票ともいわれる固定票と、それ以上のアンチをもつ。全選挙区に候補を出し、比例票を積み上げ少数だが確実な議席を確保する、いうなれば孤高の野党だった。方針が変わったのは2016年4月の北海道5区の補選だ。町村議員の死去に伴うこの補選で、町村氏の娘婿を後一歩まで追い詰めた池田真紀氏が、史上初の野党統一候補だった。これをきっかけに民進党の当時の岡田代表野党共闘に舵を切った。これ以来、参議院選といくつかの知事選、自治体の首長選で野党共闘は一定の効果は発揮した。

しかし共産党は野党にあっても非常に異質で、そしてレフトドリーマーとして最たる政党だ。主張は一見して護憲ではあるが、あくまで党是である共産主義革命の前段階としての民主主義革命を旨としており、そのための国民連合政府を目指す共闘なのだ。ライトリアリストである自民党政府に対抗する為の、レフトドリーマー同士の共闘は親和性が高いのは事実だ。しかし、それは自民党に対抗するという大義名分がなければ成り立たない、自民党という与党に依存した野党としてしか通用しない歪な共闘と云わざるを得ない。参議院や自治体の首長選、一部の補選ならともかく、政権選択たる衆議院総選挙で果たして共闘が成り立つのか? 共産党と政権を組めるのか? この問いから民進党が逃げ続けた結果が今回の衆院選だ。

今回共産党が得たものは、レフトドリーマーの純化共闘がある程度の集票力を発揮した事実であり、立憲民主党に恩を売った引き換えに議席を差し出した。しかし、合わせても70議席程度だ。天井は恐らく100だろう。立憲民主党が党勢を右寄りに広げたときに、比例票を共産党に回せるかどうか、それに支持者がついてくるかは甚だ疑問だからだ。共産党自体がどこまでマイルド路線になれるかが鍵だが、それがアイデンティティを失わせ固定の支持者を失望させる危険もはらむ。

小選挙区制度において、共産党の存在は与党を磐石にし野党を常に悩ませる。

民進党分裂で本当に問われたもの

民進党の分裂、希望の惨敗、立憲民主の躍進、そして最終的には自民の圧勝。この結果から我々有権者は、何を読み解くべきなのか。

僕の考えでは、そもそも日本における保守とリベラルの対立は、例えば「大きな政府」の是非であるとか、「富の再配分の手段」ではなく、突き詰めれば外交安保政策へのスタンスに集約される。そして、その場面での対立軸は保守とリベラルではなく、リアリストとドリーマーだ。

リアリストの安保基本方針は日米同盟で、ドリーマーは世界平和だ。ドリーマーの外交基本方針は「話せばわかる」で、リアリストは「話してもわからない相手はいる」だ。自民党はリアリスト集団であり、自民党にも左派はいるが、それはアジア重視のレフトリアリストであってドリーマーではないのだ。

排除の理論が希望失速の原因かと問われればその通りだが、分裂の原因は違う。その前の「リアルな外交安保政策について来れるか」の問いに、ドリーマー達は付いて行かなかった。

基本的に小池氏と前原氏の今回の行動は、稚拙ではあったが、もっと正当に評価し検証すべきものだ。排除だの風だの野党再編だの言ってる場合ではないのだ。

 

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