政治評論ブログ 10区

匿名で勝手に政治評論

排除の論理の正当性

このような論調の記事が選挙期間中に見られないのは、選挙報道の公平性を保つためなのだろうか。それとも今になってバランスを取っているのだろうか。

<小池氏「排除」発言>メディアが否定的に扱ったワケ

11/5(日) 9:30配信

毎日新聞

 今回の衆院選では、「希望の党」が安倍晋三政権の存続を脅かすかもしれないと注目を集めました。しかし、党代表である小池百合子東京都知事が「排除」という言葉を使ってから急速に勢いが衰え、そのまま選挙結果にあらわれました。ジャーナリストの川井龍介さんが言葉の使い方、使われ方の怖さを分析します。【毎日新聞経済プレミア】

【側近だった若狭氏ら小選挙区で敗れた主な候補者】

 ◇排他的イメージが広がった「排除」

 民進党が、当初希望の党にまるごと「合流」するかのように思われたのが、希望の党側は受け入れる者を選別する方針を示しました。小池氏は、「全員受け入れるようなことはさらさらない」といい、「排除するんですか」と記者に聞かれ「排除いたします」と言いました。

 このあたりから、メディアは「排除の論理」といった言葉を使い、一部の議員が公認から除外される事実を報じました。それだけでなく、「排除」という言葉がネガティブな意味で取り上げられるようになりました。その結果、この言葉のもつ排他的で強権的なイメージが広がっていきました。

 また、希望の党に合流できると思っていた民進党議員の一部が、仲間に入れてもらえず世間の同情を集めました。その分、排除する側である小池氏と希望の党のイメージは損なわれました。選挙結果を見た小池氏は、「きつい言葉だったかもしれない」、「使わなければよかった」と率直に反省しています。

 ◇ネガティブとは限らない「排除」

 排除には「おしのけてそこから除くこと」(大辞林)というきついニュアンスがあります。しかし、たとえば、「いじめを排除する」「差別する人を排除する」というように、何を排除するかで言葉のイメージは変わり、「排除」そのものがネガティブだとは限りません。

 小池氏の発言に限っては、いかにも人気や権力をかさに着た「上から目線」でこの言葉を使ったことが、言葉以上に悪い印象を有権者に与えたのではないでしょうか。都知事選のときに示した、逆境を切り開いていこうとする彼女の姿勢とは対照的だったのでなおさらです。

 政策や政治信条が異なる人とは、同じ政党で活動できないのは当然のことです。民進党の中には改憲問題など重要政策で意見の異なった議員同士が同居していました。だから、小池氏が、民進党議員すべてと手を組むことはできないと考えてもおかしくありません。民進党の中でも一緒に組むことができない人もいる、といえば問題はなかったのでしょう。

 ◇「野党がまとまれば」というメディアの潜在的な希望

 しかし、メディアによっては、排除という言葉を使ったことやその言い方を問題視するよりも「小池氏が民進党議員の一部を受け入れない」ことへの疑問から、排除という言葉をネガティブにとらえていたように私は感じました。その背後には、野党ができるだけまとまれば安倍一強体制を崩せるのにという、潜在的な希望が隠れているようにもうかがえました。

 野党の団結という問題をめぐっては、「日本の政治にとっては団結したほうがいい」という意見がある一方、「団結を優先して野合になってはいけない」という考えもあります。

 「団結した方がいい」という考えの人からすれば、小池氏の排除発言は問題です。しかし、それと、今回小池氏が排除という言葉を使ったことや、その言い方が適切だったかは別のことです。

 希望の党や小池氏の肩を持つ気はまったくありませんが、この二つのことが混同して使われたような気がします。と同時に、ほんの一語でも、言葉の使い方、使われ方の怖さをひしひしと感じました。

小池氏が「排除」発言をしたのは、衆議院解散翌日の9月29日の記者会見である。だが民進党のリベラル派と呼ばれる人たちを公認する意思がない事は、もっと早い段階で明らかにしていた。9月25日に希望の党結党を発表した後、9月27日に行われた記者会見で党の理念を外交安保政策を含めて「寛容な保守」と表現し、安保関連法案に反対する候補については「リアルな外交安保議論について来れるかだ」と語っていた。「そういう方はそもそも公認を求めて来ないのではないか」とも発言している。結党メンバーとして登壇していた細野氏や長島氏は、共産党を含めた野党共闘路線に反発して民進党を離党していた。後に、関西を地盤とする日本維新の会とは互いに候補者調整をすることも決まっている。ここまでの流れだけなら、「保守系」リアリスト新党の立ち上げだ。

ところがこの記者会見と前後して、民進党が衆議院選挙に党公認を出さず全員が希望の党に公認申請する、小池氏と民進党の前原代表・連合の神津会長の会談で、連合が希望の党を支援する方針を確認したとの報道が流れた。メディアは政権交代の可能性が一気に浮上したことで色めきたったが、小池氏のこれまでの発言との矛盾は明らかでもあった。翌日に予定されていた民進党の両院議員総会の紛糾は、政権交代を期待していたであろうメディアですら確実視していた。

9月28日、衆議院が解散されたその日に行われた民進両院議員総会で、前原氏は希望の党への全員の合流を提案し、全会一致で承認された。正直なところ僕には信じられなかった。この9月28日の民進党の両院議員総会については、機会があればじっくりと記事を書きたい。日本の政治史の中でも非常に重要な出来事であった。

そして9月29日だ。明らかに矛盾する小池氏と前原氏の発言と行動にメディアの関心が集中する中、「民進党のリベラル系を排除するのか?」という質問に対しての答えが、いわゆる「排除発言」である。神津氏・小池氏・前原氏と立場ある大の大人が3人も集まって、何を決めたらこうなるんだというのが有権者やメディア、そして当の民進党議員も含めた多くの人たちの感想であろう。ここから衆議院選挙は一気に混乱と迷走に陥る。

小池氏の失敗は「排除発言」ばかりがクローズアップされるが、これはメディア側のキャッチコピーにすぎない。保守系新党を作るのか、政権交代の為の新党を作るのかという最初に決めておくべき方針が、最後まであやふやだった事が一番の敗因だ。有権者の注目を集める武器にする筈だった自信の出馬の可能性も、首班指名を誰にするのかという踏み絵としての機能しか果たせず、逆に足枷になってしまった。結果として自身の党内での影響力も大きく損ない、党の理念すらどこかに飛んでいきそうな現状だ。

排除を貫いていれば議席は少なかっとしても、正当性は手に入れられた。正当性こそが政治家としての力の源でもある。ところが政権交代固執してしまったが為に、候補の選別と政策のすり合わせが中途半端になり党は混乱している。与野党の立場に関わらず、リアルな安保政策を議論するためには、政党にとって外交安保政策の一致は絶対条件だ。希望の党に関して言えば、結党理念を民進党出身議員が変えた時点で終わりだ。理念に賛同できない議員は離党すべきだと思う。

 

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不毛な「保守」「リベラル」論争

自民党の経済政策は、基本的には「大きな政府」路線だ。財政再建などで後手に回っているとの批判は当然だが、経済を拡大させながら社会保障を手厚く用意している。アメリカの政治に合わせれば、保守の共和党ではなくリベラルの民主党のような政策だ。消費税増税の凍結ないし中止を求める政策は、財政規律を重視し自己責任社会を目指す新自由主義的発想といえ、本来は共和党などの保守政党が目指す路線である。もっとも、新自由主義はそもそも「ネオ・リベラル」とも呼ばれていて、はじめはこれを提唱する政治家は「リベラリスト」だった。

憲法議論にしても、改憲を主導する自民党が「保守」で、改正反対を唱える野党が「リベラル」では、意味がまるで逆だ。自民党の保守らしい姿は、女性天皇女系天皇に慎重な姿勢くらいでしか見られない。天皇生前退位に道を開く政治手法などは充分にリベラルだ。

そもそも当たり前のようにメディアは共産党をリベラル勢力の一翼のように捉えているが、共産党をリベラルと呼ぶ国は日本くらいだ。普通は「保守左派」と呼ぶ。各国それぞれに政治対立の事情が違うのだから、保守リベラルの定義付けも一様ではない。小池都知事は「リベラルは排除します」と言ったが、彼女が何を指して「リベラル」を定義していたのかは彼女にしかわからない。

このブログの最初の記事でも述べたが、日本における政治的対立は外交安全保障政策に集約されている。自民党の施政が長く続き、保守リベラル双方の経済政策を自民党が行う稀有な国だからだ。故に、経済や社会保障での論戦は比較的矮小なものにしかならない。与野党の主張の幅は小さくならざるを得ず、野党は外交安保政策での対立軸を大きく主張をする。

日本は平和な先進国だが、西欧先進国と違い常に安保議論が政権選択の最重要項目になる。それはメディアが言うような自民党の政治姿勢への不満だけではなく、大きくは極東アジアという地政学的条件に起因している。手早く言えば「親米路線」か「親アジア路線」かということになる。ここでいうアジアとは、ロシアと中国を指す。冷戦構造は終わったが「グレートゲーム」に決着がついたわけではなく、世界はまだ本当の世界大戦を経験していない。朝鮮半島や日本列島を含む極東アジアは、ウクライナやトルコなどの黒海沿岸や東欧と並ぶ危険な地域なのだ。

日本が戦後の平和を長く享受できたのは、ソ連崩壊後の中国がまだ途上国であったという事情が大きく、グレートゲームの最前線である事実になんら変わりはない。日本は日米同盟を安保の基軸にしており、これを保持する姿勢が現代日本的「保守」である。これに対し急激な中国の成長にあわせ、安保の軸足を中国にも振り分けようとする政治的勢力が伸張する事は自然な流れであり、これが便宜上「リベラル」と呼ばれる。

日本の政治対立軸がさらに複雑なのは、リベラルの側に共産党が一定の勢力で存在し続ける土壌がある事実だ。これは平和的な市民活動との境界線を非常にわかり難くしていて、安保議論をさらに先鋭化させている元凶となっている。親アジア路線での現実的な政策が具体化せず、与党に反対するだけに終始してしまう原因でもある。

今後の長期的な世界のパワーバランスがどうなるかは未知数だが、現状の日本は日米同盟が安保の基軸だ。これを前提に現実的安保議論を深めるためには、エキセントリックな主張に凝り固まる勢力と対峙せざるを得ない。対立すべきなのは保守とリベラルではなく、親米と親アジアでもなく、リアリストとドリーマーだ。

 

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「護憲」をめぐる認識の差

ひとくちに護憲といっても、スタンスは様々である。

憲法が権力を縛るのが立憲主義だ。しかし憲法は不可侵のものではなく、改正出来ることも憲法に定められている。そして最後には権力者ではなく、我々国民が投票によって意思を明らかにするのだ。改憲発議を阻止しようとする主張は、「憲法改正反対」であって「護憲」ではないと思う。

また「憲法改正に反対ですか?」という単純な質問にしても、回答者の立場は様々だ。全条文に指一本触れてはならない、という意見もあるだろう。9条以外なら考える余地はあるという人も多いかもしれない。9条にしても、自民党草案や安倍総理の私案は嫌だけど、もっと違った形があるのならという考えだってあるだろう。質問の文章次第で答えのパーセンテージも前後する。サンプルの母数の傾向がフラットかどうかだって結果に影響する。

ちなみに僕は、戦力不保持を詠う条文に対し自衛隊違憲である、という一部の憲法学者等の主張にも一理あると思っている。しかし自衛力の放棄は主権国家として現実的ではない。だから9条に自衛権を明記する事には賛成だ。現実に憲法を合わせる手法は正攻法ではないのは確かだが、現実にそぐわない憲法に力がないのも事実だ。現に事実上9条2項は形骸化しており、憲法解釈だけが実情に合わせて肥大化している。9条1項はそのままに、2項は改正の余地は充分あると思う。そういう意味では僕は大別すれば「改憲派」ということになるのだろう。

しかし一方で安倍総理の私案である、3項を追加して自衛隊を明記する案には反対だ。どのような条文にするにしろ、2項の戦力不保持と矛盾してしまう。それよりも「これを保持しない」の前に「わが国の自主独立を守る最低限の自衛力を除き」と書き込んだほうがスマートだ。改憲派も様々な考え方があるのだ。

大事なのはヒステリックにならない事だ。ただでさえ日本人は議論が苦手なのに、最近の言論はSNSに代表される様な、短文のワンフレーズな手法が主流になりつつある。そこにあるのは議論と言うよりは論破合戦で、政治の世界もこの傾向がある。議論はオール・オア・ナッシングでは駄目だ。少数派の意見は反映され難いかもしれないが、少数派を貶めてはいけない。少数派も意固地になってはいけない。

 

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問われる護憲 不敬に尻込みするメディアの矛盾

メディアは権力を監視するという、民主主義において国民の知る権利を担保する重大な責任がある。またその責任を全うするために、報道や表現の自由は最大限尊重されなければならない。公平でなければならないが、まぁ公平でいるのは無理だとも思う。ネット環境が希望する全国民に行き渡る現代においては、メディアの発信する情報のクロスチェックも比較的容易である。主張のスタンスが明確でさえあれば受け取る側も、そういうものだと受け取れる。事実を捻じ曲げる偏向報道さえしなければ、であるが。

問題なのは、メディアが都合よく主張のスタンスを変える場合が多々あることだ。ダブルスタンダードなその姿勢は、メディア自身の正当性の汚点となるばかりでなく、発信された情報に対する不信感にもつながる。正義であれとは言わないが、最低限自分達の正義感と心中するくらいの気概は持って欲しいものだ。

この問題を強く感じさせた事例がある。天皇生前退位を巡る一連の動きと、それに対する報道の実情だ。不敬を恐れず言わせてもらうなら、僕は今回の生前退位を認める事に反対である。陛下ご自身の「お言葉」から特例法成立までの流れに、重大な憲法違反の可能性があるからだ。国権を有しない筈の陛下のご意向にそって国政が動く。憲法をないがしろにしかねないその危険性に、疑義を唱える声があまりにも少ない事に戸惑いを感じずにいられない。

高齢の陛下が、天皇という立場を離れて静かな時間を過ごされる道が開かれた、その事自体は喜ばしいことだ。しかし、それとこれとは話の次元が違うのだ。日本国憲法は日本という国の根幹であり、憲法によって定められた象徴としての天皇もまた、日本という国の根幹だ。生半可な重みではないのだ。

憲法において、天皇は「国民」ではない。国民に保障される「基本的人権」は憲法の中では、天皇に適応されない。もちろん近代的価値観の中で、天皇に人権を認めないなどという論法は有り得ない。つまり天皇の「人権」とは何か、象徴たる天皇の地位を辞したいという陛下の「ご意向」は、その人権の範疇なのかという、この国の根幹を論じる極めて重いテーマである筈だったのだ。

皇室典範に退位の規定はないが、摂政を置いて国事行為を行う事は出来る。であるならば、今回はそうして頂くべきだった。その後に充分な時間をかけて、この極めて重いテーマに取り組めばよかったのだ。しかし、ご高齢の陛下の「ご意向」に沿い特別法で退位の道を作ってしまった。これは重大な憲法違反の可能性がある。

さらに問題なのが、普段は護憲を声高に主張するメディアから、この動きの違憲性を訴える声があまりに聞こえないことだ。違憲の疑いの度合いで言えば安保法制よりこっちの方が遥かにアウトだ。都合よく出したり引っ込めたりする主張では、人に訴える力を失ってしまう事をメディアは自覚しなければならない。

憲法の改正は、それもまた憲法によって定められた国民の権利だ。改正に反対する主張は大いに結構だが、それを「護憲」と呼ぶのだろうか。「人権」を憲法より上位におくヒューマニズムも、「陛下のご意向」を憲法より上位におくロマンティシズムと変わらない。憲法は文字列ではないし、護憲も言葉遊びではないはずだ。

 

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野党は目を覚まさなければいけない

50年に渡り衆議院議員を務める大物が、この認識。眩暈がする。

「野党は今度こそ、自分勝手言わず協力を」 小沢一郎

11/1(水) 18:03配信

朝日新聞デジタル

小沢一郎自由党代表(発言録)

 今度の衆院選はね、自民党の票は増えていないんですけどね、野党が一本で戦うことができなかった現状で、また負けたっちゅうことですね。(民進党の希望の党への合流で)いいところまでちょっと歩き始めたんだけど、残念ながらうまくいきませんでした。

 ただ、再来年は参院選参院で我が方が過半数を取ることは事実上、安倍内閣の退陣につながる話。私が民主党代表を務めた時にもそういう状況の中で始まり、2009年の衆院選での(政権交代を実現する)勝利ということになった。まずさしあたっては、再来年の参院選自民党過半数割れを実現して、安倍内閣を退陣に追い込む。

 そのために、野党が今度こそね、あまりもう自分勝手言わずにですね、その大きな大義に向かって協力しあうっちゅう態勢をぜひ作りたいと思います。(国会内の記者会見で)

朝日新聞社 

 

安倍政権を倒す事、それは「大儀」とは呼べない。現政権とは違う具体的なヴィジョンを国民に提起し、その志を同じくした者同士が手を取り合って初めて、野党の共闘は大儀を得るのだ。

自民党から政権を奪うことに全ての力を尽くしたのが民主党政権だ。その実態は、目指す国家像も安全保障観もまるで違う議員の寄せ集めに過ぎなかった。党内で議論を尽くし決まった方針に従うという、組織人として当たり前の事すらできない烏合の衆だったではないか。そもそも代表や幹事長を歴任した党の重鎮でありながら、沈みゆく民主党政権から「自分勝手」に逃げ出して新党を作り、脱原発という耳障りのいい政策一本とイメージ先行の滋賀県知事で選挙を戦い、結果敗北したことは忘れたのか。

政党が政党である最低限の要件は、安全保障議論で共に一致した行動を取れるかどうかである。政党が政党であるためには、ここから逃げてはいけないのだ。僕は前原氏の行動は稚拙ではあったと思うが、その理念には深く感銘を受けている。安全保障議論で一致できない政党と、政権選択である衆議院選挙で共闘は出来ない。最低限これに賛同出来る候補者以外には、公認を与える事は出来ない。普通はこれを「大儀」と呼ぶ。

野党は共産党との関係を真剣に考えなければならない。希望の党に一瞬の凄みがあったのは、共産党との関係を捨てる覚悟を見せたからだ。野党共闘共産党が入る限り、政権には届かない。「政権のほうは自民党さんにお任せします。あっしらは野党で結構ですんで文句だけ言わしてください」との思いが透けて見えるのだ。

安易な対立軸と、耳障りの良い平和。夢だけはいっぱいの理念なきドリーマーたち。甘えるのもいい加減にしろ。そんなフワフワしたものに付き合っていられるほど国民は暇ではないのだ。

 

 

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そもそも行政は歪む

加計学園を巡る一連の疑惑報道で、度々に耳に入る「行政が歪められた」という言葉について見解を述べたい。この問題の本質は、特区申請の認可において首相が自分の友人である事を理由に、加計学園を優遇したのか否かという一点に尽きる。言い換えれば、特区が認定される判断基準に首相との距離が考慮されるか否かということだ。

先の記事で述べたことだが、今治市獣医学部が必要かどうかはこの際どうでもいいのだ。仮に加計氏が首相に批判的な人物で、特区申請が認められていなかったとしたら、今とは逆の展開でやはり疑惑になっていた。もちろん、獣医学部を新設しても獣医師が犬猫病院ばかりに集まれば結局、公務員獣医師の人手不足は解消されない。だから公務員獣医師の待遇改善などは行政としても対策しなければならない。一方で加戸前愛媛県知事の証言にもあるように、今治市獣医学部新設は地元自治体からも要望されており、与野党問わず地元選出の国会議員も誘致に積極的に関わって来た。地元が望んでもいないものを首相が強引にねじ込んだという話ではない。つまりどっちに転んでもどちらからか批判が出る種類のものだ。

文部科学省だけに限らず、行政機関である中央省庁というものは立法府である国会が決めた法律を、全国一律に適正に運用する事が仕事だ。時にそれは融通がきかず頭の固いお役所仕事とも揶揄されるが、法治国家である以上尊重すべき正しい価値観だ。そして実際の行政の現場では様々なケースがおこり、そのたびに法律に照らし合わせてどう運用するか行政判断が行われる。だから政府でも自治体でも、行政のトップは選挙によって有権者の信託を得た政治家でなければならず、行政のトップは部下である公務員を監督し、場合によっては人事権を発動できるのだ。行政は画一的なものではあるが、ある程度のフリーハンドな部分がないと上手く運用できない。

その最たる例が特区制度だ。全国一律の法運用では地方ごとの問題に対応しきれない時に、必要に応じて内閣主導で特例を認める。つまり法に基づいた特別扱いで、最初から全国一律の行政を歪めるためにあるものだ。

今回の場合、例えば贈収賄の証拠でもあれば当然アウトだがそれがない以上、特区認可の判断に首相と加計氏の関係性が考慮されたか否かを証明する事は不可能であると言っていい。総理と近しい人の特区申請は認めてはならず、批判的な人の申請は認めなくてはならないのだとしたら、そっちの方がよっぽど歪だ。

厳しい事をいえば、文科省事務次官であった前川氏は公務員であり、行政を正しく運用する立場であって重大な行政判断をする立場ではない。その任にあるのは、選挙によって有権者の信託を得た政治家による内閣なのだ。彼には公民権があるのだから、どうしてもおかしいと思うなら出馬して政治家になる権利もある。もちろんどんな発言をしようと自由だが、どうにもポイントがずれている気がしてならない。

 

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政治家の説明責任とは

ことしの政治ネタで特に報道量が多いのが、いわゆるモリカケ問題だろう。初期報道から半年以上の時間が過ぎ、その間もメディアや野党が徹底して調査したであろうが、現在まで決定的な贈収賄などの物証は何一つ挙がっていない。もちろん安倍首相に隙があったのは事実ではあるが、これが総選挙での投票行動に大きく影響しなかったという事が、今回の衆議院選挙での自民党の勝因のひとつだ。

選挙間近になってメディアの政治評論家やコメンテーターの発言にあるひとつの変化がうまれた。「説明責任とは、国民が納得しないと果たした事にならない」との論調だ。なるほど、と納得してしまいそうな表現だが、よく考えると無茶苦茶である。納得しないと決めている相手に説明責任を果たすのは不可能ではないか。ならば僕は問いたい。従軍慰安婦における吉田証言の誤報問題で、朝日新聞をはじめとするメディアは謝罪記事を出した事で説明責任を果たしたと思っているようだが、僕はまったく納得していないから更なる説明を求めたいと。

綺麗ごとを抜きに、結局説明責任なんて言葉遊びだ。司法の介入する自体でもない限りパワーゲームに過ぎない。説明するほうはこれで責任が果たせるなんて思ってないし、説明されるほうも納得する気も終わりにする気もないのなら、それは茶番だ。日本は法治国家なのだから納得できないなら司法の場で争えばいいのだ。安倍政権は一連の疑惑報道で支持率を大きく落とした。贈収賄や背任などの事件性はない。ロッキードリクルート、佐川急便のような事態にはならない。これ以上国会の場で何をすれば納得できるのか? もう双方このパワーゲームに勝ち筋はない。

森友学園の用地値引きに関しては、まずその土地に何故そんなにゴミが埋まっているのか、一体どういう使い方をした土地なのかという論点が抜けている。国有地の払い下げを定価で買うほうがレアケースだし、周りの地価に合わせて定価を算出し値引きで帳尻を合わせる手法は珍しいものではない。豊洲は逆のパターンで、売主の東京ガスにしてみれば生鮮市場用地として売るなんて面倒この上ないのだ。あの立地と面積なら商用地や住宅地として放っておいても売れる土地を、東京都はどうしても欲しかった。足元を見られるのは当然で、瑕疵担保責任を求められる契約なら売主は売らないだけだ。

加計学園獣医学部新設をめぐる特区の問題にしても、認めるか認めないかはこの際どうでもいいのだ。もし加計氏が安倍総理ではなく例えば当時の蓮舫代表の友人で大陸系のルーツの人物だったとして、新設の特区申請を認めなかったとしたら、今とはまったく逆のパターンで疑惑になっていたと断言できる。宮崎の口蹄疫で大変だったのに、60年も新設されてない獣医学部で特区を認めないのはおかしい。蓮舫代表の友人だからじゃないのか? 総理は特区を私物化し行政をゆがめていると。現在は内閣府が悪玉で文科省が善玉になっているが、それがひっくり返るだけだ。

政治家にとって言葉は命だ。だから説明する責任はある。しかし納得するかしないかは相手次第なのだから、納得させる責任をはたすのは不可能だ。